篠原千絵の漫画と『還る』というテーマ
なぜか幼い少女はホラー漫画が好きだ。
友人の姪の話だが、「進撃の巨人」のファンでその理由は「血がいっぱいでるから」という衝撃的な答えであった。
とある漫画家の娘もまた「お父さんも進撃の巨人みたいな面白い漫画を描いてよ」と言ったとかなんとか。
鬼滅の刃も結構グロいシーンが多いものの、幼稚園から小学校くらいの子供に受けている。
繰り返そう。
幼女は意外とホラー漫画が好きである。
実際、昔の少女漫画にはホラー枠というのがあって結構人気作品が多かったのだ。
なかよしの「スクランブル同盟」や花とゆめの星野架名など、実際に私が小学生の頃に好んで読んでいた漫画にもサスペンス・ホラー風味の作品が確かにあった。
そして、少女コミックの篠原千絵もこのカテゴリーに入る作家であっただろう。
本人も「ホラー漫画なら雑誌にひとつあっていいから仕事が入る」と新人の頃に言われたというエピソードを単行本のあとがきか何かで語っていた。
初期の篠原千絵作品はホラー調のサスペンス読み切りが多く、その後長期連載作品となる「闇のパープルアイ」「海の闇、月の影」「蒼の封印」を経てあの大ヒット作品「天は赤い河のほとり」に至る。
この全てを読んだとき、明らかに浮かび上がってくるテーマが『還る』である。
篠原千絵作品の導入部にはお決まりのパターンがあって、平凡に何不自由なく暮らしていた少女がある日突然、非日常に足を踏み入れてしまうという『恐怖』を描きながら物語を始めてゆく。
「闇のパープルアイ」では、豹の血に目覚めかけた倫子が曽根崎先生に狙われる。豹に変わってしまうという恐怖、人を食い殺してしまったという恐怖、慎ちゃんに嫌われるかもしれないという恐怖。後の作品も全部(※天河の途中まで。後ほど説明するが、それ以降は少し作品の毛色が変わってくる)同じなのだが、こういう少女が感じているどうしようもない恐怖がメインに描かれるからこそ、それを慰め支えるヒーロー役の包容力が強調されてくる。少女漫画に必須であろうラブシーンが映えるというわけだ。
篠原千絵が長く少女漫画誌で活躍できたのはこの落差によって生まれたラブシーンのエモさという要素も大きかったのではないかと思う。
「闇のパープルアイ」は結局、倫子の娘の麻衣が暁生と共に日本を脱出するラストシーンで幕を閉じた。
悲恋に終わった倫子と慎也の物語を引き継いだ彼女たちのラストは同じ運命を持つ者たちへの祈りに満ちたナレーションで締められている。
このナレーションは作品タイトルを回収するような内容になっており、篠原千絵作品ではお約束の締め方だ。このページを読むと「ああ、終わってしまったんだな」と寂しくも不思議な満足感を覚えたものだ。
次の連載作品である「海の闇、月の影」は前作よりもさらにアクション要素とSF要素、そして流血要素までをが強化され、地球の命運をかけた壮大な物語となった。今思えばちょっと早く来たセカイ系と言えるかもしれない。
だって、事の発端は姉妹喧嘩ですよ。それが地球の命運を左右しちゃうんですよ。これをセカイ系と呼ばずになんと呼ぶのか。
物語の始まりは「闇のパープルアイ」と同様、普通の少女だった流風が双子の姉・流水と参加した陸上部のハイキングで感染したウイルスによって超能力に目覚め、自分を憎む流水に命を狙われてしまうというここでも日常から非日常への転換がきっかけとなっている。
その後、実の姉に命を狙われるという恐怖がメインに描かれていく点も同じといえるだろう。
個人的に、篠原千絵作品の傑作と言えばこの「海の闇、月の影」なのだが、当時連載をリアルタイムで追いかけていた方は「引き延ばしがひどかった。ジーンを倒した後で鳩が逃げて処方箋を探すとか言い出した時にはキレた」と仰っていたので後に単行本でまとめて読めたことは幸いだったかもしれない。
あとは「ウイルスなんて40度くらいで死ぬんだから焼却(※1)しないとダメっていうのもおかしい」とも仰っていたな。
(※1 海闇では流水の血を飲むなどしてウイルスに二次感染した人間は保菌者である流水の命令に操られてしまうのだが、それに対して流風の血から感染した者は流水のウイルスに対する抗体を得られるという設定になっている。作中では、流風の血が入った人間を焼却するシーンなどもあって今の基準で考えるとかなり残虐な描写が多かった)
なお、篠原千絵作品におけるヒーローのヒロインへの溺愛はどのシリーズでも凄まじいのだが、「海の闇、月の影」の当麻克之はその中でも最高レベルの献身っぷりを見せつけてくれる。
家族を殺されようが、弟を操られようが、陸上部のライバルたちが惨殺されようが、薬を盛られてヒロイン以外の女を抱いてしまおうが、過去の女によりを戻そうと迫られようが、ヒロイン本人に別れましょうと言われようが、頑として諦めない。
この精神力、明らかに人の域を超えている……後のカイルがちょっとユーリと離れていただけで嘔吐し、「ストレスで胃が!?」とか家臣に言われちゃうのと比べると、人間味があまりにもなさ過ぎる。
そしてラストは、流水を己の手にかけた流風が克之に「君の中に流水はいる」と言われ、自分を抱き締めるシーンの後でタイトル通りの光景が描写される。そしてお約束のタイトルを回収するナレーション。
続いて連載されたのが、本人も失敗だったと言っている「蒼の封印」。この辺りから私もリアルタイムで少女コミックを読んでいたので感慨深さを感じる。
正直、設定や雰囲気だけなら海闇よりも好みだった。この頃は作者の画力が頂点を極めており、とにかく絵が綺麗で神秘的な世界観が美しく表現されていたし、四神と鬼伝説を絡めた伝奇的な設定はとても魅力的だった。
桐生が鬼龍の当て字であるとか、白虎の血を引く西園寺家、蒼龍の蒼子、朱雀の緋子といったネーミングセンスも子供心に憧れた。
連載期間が91年~94年ということで思い出すのは、コバルト文庫で売れていた「炎蜃気楼」や「ハイスクール・オーラバスター」といった和風伝奇要素のある作品群である。
これらのどこかほの暗さを感じさせる設定重視のファンタジー作品は95年を頂点にその後衰退していくのだが、まさしく「蒼の封印」もそうした時代に生まれた仇花であったのだろうと思わせる。
登場人物もこれまでの作品と比べるとかなり「キャラクター的」であり、個性があって結構好きだった。
ただ、このキャラクター重視の設定がストーリー進行とうまくかみ合わなかったのかもしれない。篠原千絵はキャラクターを駒のように動かして話をつくる「ストーリー型」の作家だった。キャラクターを立て、彼らを自由に転がすことで話をつくる「キャラクター型」の作家ではない。
「蒼の封印」もまた例にもれず、普通に暮らしていた桐生蒼子という少女が西園寺彬という謎の男に命を狙われるという「またか!」と言いたくなるような導入部が用意されている。
そしてまたしても命を狙われる恐怖を描きながら、己の正体を知ってゆく……という流れはいつも通りなのだが、ここまで読んでくださった方はお気づきだろう。一見しては同じなのだが、同じだからこそこれまでとはがらっと変えてきた点がひとつだけあるのだ。
そう、命を狙うのがヒーローその人なのである。
これまでの篠原千絵作品において、ヒーローは一貫してヒロインを守る側にいた。それが命を狙われる恐怖、己が何者かわからないという恐怖、ヒーローに嫌われるかもしれないという恐怖へのカウンターとして凄まじくエモいラブシーンを演出していたのである。
ところが、「蒼の封印」においてはこの図式を変えてきた。そしてこの変更点こそが、後にストーリーの足を大きく引っ張るのである。
「蒼の封印」の主人公である蒼子は、実は鬼門を束ねる『東家の蒼龍』のクローン。玄武の高雄の手によって本物の蒼子と入れ替えられた鬼だったのだ。そして、西園寺彬は鬼を狩る側についた『西家の白虎』。敵同士のふたりはしかし恋に落ちてしまい……というロミオとジュリエットを彷彿とさせる展開を見せる。
篠原千絵の作品は基本的に、少女漫画でありながらラブストーリーが主軸ではない。
メインストーリーは他にあって、そのカウンターパートとしてエモいラブシーンが挿入されるという構造になっている。
メインストーリーとは即ち、「平凡な少女が突然、非日常に放り出されて命の危険をともなう恐怖を味わう」という部分だ。
ここで重要なのは、その恐怖を与える人物なり設定なりである。
「闇のパープルアイ」では、豹に変身できる人間という己の正体とその存在を狙う曽根崎という女教授。
「海の闇、月の影」では、ウイルス感染によって目覚めた超能力と自分の命を狙う双子の姉。
先に述べたように、篠原千絵作品というのはこれが全てである。ヒロインを狙うやつがいて、そいつから逃げたり戦ったりしている合間にヒーローといちゃいちゃし、最終的には敵を倒すが、こちらもいろいろなものを失ってしまったね、というだけの話だ。それをあれほどまでに大河的にエモーショナルに美しく描いてしまうのだからその筆力たるや凄まじい。
そして、その筆力の根源たるテーマがこの記事のタイトルにもある『還る』というキーワードなのだが、その話はもう少し先にまでとっておきたい。
まずは「天は赤い河のほとり」までの作品を振り返る作業を進めよう。
話を戻すと、闇パでは曽根崎先生、海闇では流水こそがストーリーを動かす重要なキーパーソンになるということだ。ちょっと話を先取りして、天赤のナキア皇后をここに並べるとわかりやすいだろう。
要は、「この人たちがいなきゃ話が始まらない」のだ。彼女たちが野心なり嫉妬なりでヒロインを狙ってくれるからこそ、私たちは運命に翻弄されるヒロインの物語をこうして楽しめるのである。
そこへ来て、問題の『蒼の封印』である。こちらも話の構造は他シリーズと変わらず、実は人を喰らう鬼だったヒロインが鬼狩りの一族であるヒーローに命を狙われるという話だ。
しかし、である。
当たり前だが、ヒーローはヒロインのことを好きになって守るからヒーローというのだ。本作のヒーローである彬も2巻が終わる頃にはもうヒロインに惚れてしまっている。早い、早過ぎる。
じゃあ、誰が代わりにヒロインを狙ってくれるのだ? と思っていると彼と跡目争い中の兄妹たちが登場する。さすが篠原千絵、物語に何が必要なのかを理解している。ここら辺の展開はとても面白く、特に蒼子が西園寺家の長男である彬の兄を喰らう場面は、同時に己が鬼であること、そして彬が好きだと認める場面でもあって、作中屈指の名シーンであると断言する。
ここまではかなりよかった。
彬の弟の楷もいい奴だったし、檀だって嫌いにはなれなかった。
やはり、問題はその後、西園寺家に変わって蒼子を狙いにやってきた玄武の高雄と朱雀の緋子の存在だろう。
特に高雄だ。
彼は表向きは本物の蒼子の兄として、ずっと蒼子の側で彼女を見守って来た。今回の事件の首謀者である。目的は鬼門の長である蒼龍を復活させ、再び鬼が支配する世の中にすること。鬼門復活を阻止するため人間側についた彬の西園寺家とは対極を成す存在である。
ここに、ヒロインを狙う存在とそれに対するカウンターとしてのヒーローという黄金律が復活……しなかったんだな、これが。
重要なネタバレになるので、「蒼の封印」を読んでいない方は是非読んでから続きを見てほしいですね。
私が傑作度では海闇に劣ると言い、作者にも失敗だと言われたという「蒼の封印」がそれでも好きなのはこの設定があったからに尽きるので。
玄武の高雄=蒼子のオリジナルである蒼龍の夫
伏線はあった。
最初は蒼子の妹として登場した緋子が実は妹ではなくて娘であったとわかった時にじゃあ夫は、と考えて高雄に思い至った読者がどれだけいただろう。
私は中学生くらいだったのでそんなことは全く考えず、ラスト近くで緋子と高雄が似ているとばらされてはじめて驚愕したものだ。
しかも、彼の本体は首だけになって何千年も生き続け、蒼子のクローンが生まれてからは兄として誰よりも近い場所で見守り続けていたのである。
正直言って、蒼子への愛度で彬に勝ってしまっている。いや、愛というのはその深さだけでは語れないのだが、篠原千絵作品のヒーローというのはとにかく溺愛、献身、その包容力が評価されるので、どう考えてもその点において高雄に彬が勝てなかったことこそがこの作品の着地点がうまく定まらなかった原因のひとつにあると思えてならない。
もちろん他の大きな問題点として、鬼門を悪として書ききれなかったということもあるし、和風ファンタジーを描く難しさもあったと思う(天赤の後、「水に棲む花」で和風ファンタジーにリベンジされていたがやはりこちらもうまくはいっていなかった)。
だが、いまいちラストシーンが締まらなかったのはやっぱり、蒼子があそこで彬を選んだことに共感しづらかったというのが大きいのではないかな。だって、高雄の方がかっこいいしな。少なくとも私は高雄を選んで欲しかった。もちろんそれはただの願望であって、あそこで蒼子を行かせた高雄の愛の深さと切なさ、そして緋子の娘らしいセリフがあったからこそ好きになったのは否めない。
ではなぜ、彬より高雄の方が魅力的なキャラクターになってしまったのか? これもまた、『還る』というテーマが深く関係しているのだ。
それでは、いよいよあの作品の番である。
作者最大のヒット作となった「天は赤い河のほとり」を解説しながらこの『還る』というテーマについて話していこう。
「還る」。
私はこの言葉に郷愁に似た感情を喚起させられる。
懐かしさ、かつて自分がいたはずの場所、原点。そしてもう、いまは失なわれてしまったもの。
篠原千絵作品における「還る場所」とは、ヒロインとなる少女たちが最初に生きていた平凡で平和な日常、愛する家族たちのいる世界を意味しているのは明白だ。
何度も繰り返してきたように、篠原千絵の描く漫画はまず初めに幸福な状態があって、それが失われることによって物語が駆動するのである。
そして、ヒロインたちは物語中で何度も叫ぶ。
あの頃に戻りたい、と。
「闇のパープルアイ」で倫子は何も知らずに生きていた頃の自分を懐かしく回想していた。せいぜい慎ちゃんの目にどう映るかだけを気にしていればよかった、という等身大の少女らしい述懐は秀逸だ。
「海の闇、月の影」の流風は流水に言った。仲が良かったあの頃に戻りたい、と。そして流水は言う。もう後戻りはできないと。
「空は赤い河のほとり」においても、ユーリはずっと現代に戻りたがっていた。少女漫画において、ヒロインが異世界や過去に飛ばされるという設定はそれほど珍しいものではない。だが、筆者にかかるとそんなありきたりな設定すらも篠原千絵的漫画構造の中に取り込まれ、「幸福な日常から一転して命の危険を伴う非日常へ」というメソッド通りの展開を見せてゆく。
これまでのシリーズ通りに展開したとすれば、「天は赤い河のほとり」はナキア皇后を倒す代わりにユーリは現代へ帰る手段を失い、カイルの妃となることを受け入れて「この赤い河のほとりに生きる」というナレーションと共にラストシーンを迎えたはずだ。
しかし、そうはならなかった。
この印象的なナレーションは作中の間に挟まれ、天赤の物語上、いや、篠原千絵漫画史において最も重要な転換点となるのである。
これまでのヒロインたちは、冒頭で失われた幸せな頃に還りたいと願い、それを叶えられないままにどこか切なさの残るラストシーンを迎えていた。
少女たちは幸せにはなっていないのだ。
だって、最大の願いが叶えられていない。
確かに敵は排除され、命の危機は去り、愛する人も隣にいる。だがそれらは彼女たちが本当に求めていたものではない。
少女は、『あの頃に還りたかった』のだ。
篠原千絵はある程度、このテーマに自覚的であると私は考えている。なぜならば、『還ってきた娘』というそのまんまなタイトルの小説を書いているからだ。これはかなり昔、子供の頃に読んだのだがもうほとんど内容は忘れてしまった。けれど面白かったことは覚えている。確か、死んだヒロインが小さな少女に生まれ変わったんだか憑依したんだかで、さまざまな事件に巻き込まれながら自分を殺した犯人をヒーローの林と共に探す…みたいなストーリーだった気がするが、かなりうろ覚えです、すみません。
話を戻そう。
そんなわけで、ユーリも例に漏れず最初はどうにか現代へ戻ろうと頑張る。どんなに妨害されても、命を狙われても、カイルに求愛されても変わらない。
あらためて考えると、これはちょっと異色だ。
主人公が異世界なり過去に飛ばされる系の話はよくあるが、大抵は飛ばされた先のドラマに巻き込まれ、そちらの事件解決がメインになってゆく。もちろんできれば帰りたいとは思っているが、大抵は異世界で起こる事件の方が現実世界のそれよりも魅力的であり、彼らは夢中でその非現実にのめり込んでいくのだ。
しかし、ユーリは決して望郷の心を忘れない。そして、『還る』ためにこそナキア皇后に立ち向かい、その結果としてヒッタイトという大国をも救ってゆくのだ。
そしてあの転換点である。
あれだけ現代に戻りたいと願っていたユーリがついに、その願いを捨てる。
ユーリがこの赤い河のほとりに生きると決めた瞬間、篠原千絵が連綿と描き続けてきた『還る』というテーマもまた棄却されたのだ。
このカタルシスは前述した「蒼の封印」における蒼子が彬への想いを認め、自分が鬼であることを受け入れて椋を喰らったシーンとも似ている。この時、蒼子は「人であること」を捨てたのだ。それは即ち、ただの蒼子として生きていた頃に戻れるはずという望みを捨てた瞬間でもあった。
同じようなシーンは他にもある。「海の闇、月の影」で自分に告白してきた男を流水が地下鉄に誘い込んで殺すシーンだ。この時に、流水は自分が後戻りできないことをはっきりと自覚している。彼女もまた、心のどこかでは戻りたいと願っているのだ。
私は、篠原千絵という作家がここまで『還る』というテーマにこだわる理由に興味がある。どれほどの執念と希求があれば何十年にも及ぶ漫画連載生活の中でこれだけぶれずに、一途にひとつのテーマを描き続けられるのだろうか。
彼女の作品のファンになるのはきっと、この“還りたい”という恐るべき求心力を放つ想いに共感、あるいは引き寄せられてしまった者たちだと思う。
しかも、その激烈なる願い、決して叶えられぬ望みは「天は赤い河のほとり」の中盤にて棄却され、真なるハッピーエンドへの道を切り拓く方向へと舵を切るのである。
手に入らない過去への憧憬を捨て、未来を選ぶ。
これは「蒼の封印」のラストにおいて、蒼子が高雄や緋子、鬼門一同を捨てて彬の元へ走ったシーンと重なる部分がある。
この時にはうまくいかなかった転換が、天赤で昇華されたとも言えるだろう。
そして、高雄というキャラクターが彬を食ってしまった理由もここにある。彼は蒼子の『還る場所』、幸せだったあの頃の象徴であったのだ。
ゆえに、蒼子に過去すなわち己が鬼門の長であるという立場を捨てさせ、彬を選ばせるには彼を殺して「あの頃には絶対に戻れない」と思い知らさなければならなかった。実際、彼は一度(兄であった頃を含めれば二度)死んでいる。だが、朱雀の刑罰によって首だけの存在で生きながらえていることが判明し、死んだように見えた身体はただの幻術であったということで何事もなかったかのように復活してしまった。
いや、あの復活シーンはかっこよかったですけどね。
自分が鬼門を継ぐと決断したのは緋子だし、彬のところに行けとけしかけたのも緋子だし、蒼子なんもしてねーじゃん! お膳立てされてばっかじゃん! っていう……彬も彬で自分で奪いに行くでもなく棚ぼた的な……。
一応、高雄は「自分には蒼子を抱く腕も体もない」みたいなことを言っていましたが、それだけでは弱すぎる。高雄はそれで諦めつくかもしれないが、蒼子の方が吹っ切れない。
だってそもそも“還りたい”なんていう非常に概念的で感傷的な望みなのだから、実体のあるなしなんて関係ないのだ。
このあたり、子供が作れないという理由でナキアと駆け落ちできなかったウルヒにも通じるところがある。
肉体的な欠損など、蒼子やナキアが彼らを諦める理由になんてならないのだ。
思えば、この『家族』というモチーフは篠原千絵作品の中で何度も繰り返し使われてきた。
高雄と緋子は慎也と麻衣に重なるし、ヒロインやヒーローの家族はいつも細かい設定が用意されていた。
海闇なんて双子がモチーフですしね。
自分が生まれた家を出て、新たな家族をつくること。ユーリの選択と生き方はまさしくそうした王道を歩んだからこそ大衆に受け入れられ、大ヒットしたのだろう。
『還る』ことを諦めたヒロインたちがどこへ向かうのか、その後の篠原千絵作品についてはこの場で語る意を持たない。
彼女たちは過去を望むのをやめて、未来を掴むために生きると決めた。現在連載中の「夢の滴、黄金の鳥籠」ではその結末のひとつの形を見ることができるだろう。
それにしても、『還る』ことを諦めたユーリが向かった先が『カイル』の元だというのは示唆的である。
『還る』と『カイル』。
駄洒落みたいだが、こういう一致は意外と侮れない。
ユーリはちゃんと、欲しかったものを手に入れたのだ。
『My Merry May with be』――KIDというゲームブランドの分水嶺
いまから約20年前。
2000年代初頭はコンシューマゲームの全盛期であったと2020年の今になって思う。
同時にパソコンソフトの市場において、美少女ゲームいわゆる『ギャルゲー』というジャンルが隆盛を極めていた。
そのような情勢の中でKIDはコンシューマ機を主戦場にギャルゲーの開発・販売を行っていためずらしいブランドであり、代表作として『Ever17』『Memories Offシリーズ』等、SF要素とゲームシステムを融合させた“メタ”的なシナリオや“喪失”から始まる切ない物語展開を得意としていた。
今回取り上げる『My Merry May with be』は1作目である『My Merry May』とその続編である『My Merry Maybe』をセットにし、新たに3つのエピソードを書き下ろした完全版とも言える作品だ。
筆者は『My Merry May』を発売当時にプレイし、それから17年の時を越え、ようやく『My Merry Maybe』のエンディングにたどり着いた。
当時は気が付かなかったこと、今だからこそ推測できる本当のテーマ――果たして、“レプリス”とは何の暗喩なのか?
KIDは2006年に倒産し、そのスタッフの一部は5pb.へと受け継がれたものの、その作風は『My Merry May』を境にがらりと変化している。
その分水嶺となった本作について、興奮さめやらぬうちに感想や考察を書き綴っておきたくこの場を借りた。
ここから先は『My Merry May』『My Merry Maybe』及び『Ever17』をはじめとするKIDゲームのネタバレを含むため、もし興味を持たれたならば是非とも先にゲーム本編をプレイすることをお勧めする(特に『Ever17』を未プレイの方は回れ右推奨)。
もしもあなたが毎日に退屈し、「何か面白い事はないかな」とひとり空を見上げることがあるならば。
きっと、極上の“裏切り”に酔いしれるに違いないだろう。
-
My Merry May――“キャラクター”という欺瞞
-
レゥ
-
リース
-
My Merry Maybe――そして、“ヒト”になる
-
レゥ
-
リース
-
ライカ
-
穂乃果
・HUMAN BEING:REU
プレイ済みの方々にお聞きしたいのだが、ライカルートで初めて彼女が喋った途端、強烈な違和感を覚えなかっただろうか?
レゥシリーズのレプリスは全て同じ声優が演じているので、声は同じである。だが、決定的な何かが違う。
まず、かわいくない。不機嫌過ぎて、自分勝手過ぎてむしろ反感を抱いてしまうほどだ。特に初登場時の台詞がこちらである。
「……なにをじろじろ見てんのよ。この……えっち! なんなのよう! 女の子はとっても繊細なんだから。少しは気を遣ってよ! それよりも! ねえ、何か着るものない? ねえ……聞いてる? ……あ、ゴメン……首、しまっちゃった?」
他の――特にレプリス側のヒロインが共通して持つ一定の調子で作られたキャラクター口調と比べると明らかに“普通っぽく”喋らせようとしているのが分かる。こちらの思惑などそっちのけで、奔放に振る舞う世間知らずの少女。
シナリオの終盤、ライカはレゥの作り出した人格でしかないことが判明してからもこの性格はレゥと混ざり合う形で継続する。そして、作中で彼女を示すシリアルナンバーがレプリスの型式番号から『Human BEING:REU』――『人間としてのレゥ』へと変貌する流れは、まさに『May』から『Maybe』へとテーマが受け継がれ、そして叶えられた福音でもある。
My Merry May with be――ゼロ年代のオタクが夢見た“家族”という偶像
前作『May』では人間側のヒロインをリアルっぽく描写することでキャラクターからの脱却を図ろうとしていたものの、肝心のレプリスであるレゥとリースおいては今まで通りに心地よい安寧の中でまどろむばかりの結末にしか至れていなかった。
なぜならば、そう――レゥは主人公のことを『おにいちゃん』と呼ぶのだ。本考察の最初に提示した、この作品最大の伏線。レプリスがキャラクターのメタファーであり、プレイヤーの望む通りの反応をする作り物であるという揶揄を前提とするならば、この呼び方もまた、「こういうのが好きなんでしょ?」というオタクへの挑戦であると表層的には受け取れる。
だが、この作品はそんなありきたりの揶揄だけでは終わらせない。
ヒロインがプレイヤーの望む通りに動く、自分の意思を持たない傀儡だとするならば。
ならば、ヒロインを攻略するために彼女たちの望む通りの行動をとるプレイヤーの分身である主人公も同じような存在ではないか? と。
主人公の渡良瀬恭介は、最初期の試作型レプリスとそれを作った渡良瀬恭一の間に生まれた子供だった。
すなわち、半分はレプリスなのである。
(この事実は『May』『Maybe』本編では遠回しに語られるのみだが、『with be』で追加されたエピローグによってほぼ確定的となる。また、一部のスチルやアペンドディスクなどで見られる立ち絵の顔立ちにはレゥと同じ面影がある)
レゥとは直接の兄妹には当たらないものの、同じような“持病”を持ち、どこか受け身な性格をしている恭介。
ヒロインがプレイヤーにとって都合のよいキャラクターでしかないとすれば、主人公もまた同じように都合のよいキャラクターでしかない。
そして、『May』のレゥルートにおいて主人公はその事実を知らないままに妹と求め合った。
私は、『Maybe』のライカ(レゥ)シナリオこそレゥが本当の意味で“愛”を知った物語であると考える。家族への依存からの脱却と、キャラクターから人間への見事なる羽化。
“他人”を愛せてこそ、自立した人間となれる。
KIDの作品は、物語の入りこそやや陰鬱で人を選ぶ設定を好むが最終的には王道的なテーマに着地する。
いつも思うのは、それが贖罪と救済のための物語であることだ。喪失感や罪悪感のもたらす逆境のなかで主人公たちは何度も足掻き、そして最後に全てをひっくり返す。私がKIDの作品が好きなのは、きっとそこなのだろう。
『Maybe』以降、KIDの作品はより大人向けの内容となり、その路線は決して成功したとは言えない。冒頭で述べた通り2006年に倒産した後は5pd.より2009年に他社の協力を得て『STEINS;GATE』を発売。これがヒットし、一世を風靡することとなる。
以上が、『May Merry May』及び『May Merry Maybe』に関する考察である。偶然ながら、後者をプレイするまでに『EVER17』で繰り返されたのと同じだけの年数がかかってしまった。
こうして自分なりの考察をまとめられるような時期にプレイできたことを大変ありがたく思っている。
記事の終わりに、“彼”の考察を書いて筆を置きたい。
-
渡良瀬恭平
主人公の兄であり、作中では唯一の男性型レプリス。厳密には主人公が生まれた後に作られたので、“弟”といった方が正しい。まだ『Maybe』が前作の43年後であると明かされる前の段階では若い頃の彼を模したコピーを身代わりにしており、年を取った本人は父である恭一になりすましていた。
今回の考察をしたためながら、私はずっとこの恭平というキャラクターはいったいなんのメタファーなのかと考えていた。
父親? 少し違う気がする。
そもそも、ギャルゲーにおいての父性というのは主人公に重ね合わされるためにあらかじめポジションを空けておくものだ。
ならば、なんだろう。
主人公を守り、優しく甘やかしてしまった結果、彼もまた罪を背負うことになる。最も大切なものを失いながらも、“家族ごっこ”を43年間続けることしかできなかったレプリス。
それは、“製作者”のメタファーではなかっただろうか?
もしそうだとすれば、冷静な客観視に恐れ入る。物語を作る側も、結局はプレイヤーに都合のよい存在でしかなかったのだとおおいに自虐しているのだから。
時代は移り変わり、彼らがあれほどこだわっていた“家族ごっこ”もいまやそれほど求められていないように感じられる。
それはきっと、ただの“偶像”でしかなかったことにオタクたちが気づいてしまったからだ。
いまはさしずめ、“アイドルごっこ”の最中だろうか。だが、それもまた“偶像”であるとそろそろ気づかれ始めているような気配を感じる。
果たして彼らは次に何を求めるのだろうか。
物語は常に幻想と幻滅を繰り返して、時代を渡り歩いていく。