『My Merry May with be』――KIDというゲームブランドの分水嶺
いまから約20年前。
2000年代初頭はコンシューマゲームの全盛期であったと2020年の今になって思う。
同時にパソコンソフトの市場において、美少女ゲームいわゆる『ギャルゲー』というジャンルが隆盛を極めていた。
そのような情勢の中でKIDはコンシューマ機を主戦場にギャルゲーの開発・販売を行っていためずらしいブランドであり、代表作として『Ever17』『Memories Offシリーズ』等、SF要素とゲームシステムを融合させた“メタ”的なシナリオや“喪失”から始まる切ない物語展開を得意としていた。
今回取り上げる『My Merry May with be』は1作目である『My Merry May』とその続編である『My Merry Maybe』をセットにし、新たに3つのエピソードを書き下ろした完全版とも言える作品だ。
筆者は『My Merry May』を発売当時にプレイし、それから17年の時を越え、ようやく『My Merry Maybe』のエンディングにたどり着いた。
当時は気が付かなかったこと、今だからこそ推測できる本当のテーマ――果たして、“レプリス”とは何の暗喩なのか?
KIDは2006年に倒産し、そのスタッフの一部は5pb.へと受け継がれたものの、その作風は『My Merry May』を境にがらりと変化している。
その分水嶺となった本作について、興奮さめやらぬうちに感想や考察を書き綴っておきたくこの場を借りた。
ここから先は『My Merry May』『My Merry Maybe』及び『Ever17』をはじめとするKIDゲームのネタバレを含むため、もし興味を持たれたならば是非とも先にゲーム本編をプレイすることをお勧めする(特に『Ever17』を未プレイの方は回れ右推奨)。
もしもあなたが毎日に退屈し、「何か面白い事はないかな」とひとり空を見上げることがあるならば。
きっと、極上の“裏切り”に酔いしれるに違いないだろう。
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My Merry May――“キャラクター”という欺瞞
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レゥ
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リース
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My Merry Maybe――そして、“ヒト”になる
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レゥ
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リース
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ライカ
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穂乃果
・HUMAN BEING:REU
プレイ済みの方々にお聞きしたいのだが、ライカルートで初めて彼女が喋った途端、強烈な違和感を覚えなかっただろうか?
レゥシリーズのレプリスは全て同じ声優が演じているので、声は同じである。だが、決定的な何かが違う。
まず、かわいくない。不機嫌過ぎて、自分勝手過ぎてむしろ反感を抱いてしまうほどだ。特に初登場時の台詞がこちらである。
「……なにをじろじろ見てんのよ。この……えっち! なんなのよう! 女の子はとっても繊細なんだから。少しは気を遣ってよ! それよりも! ねえ、何か着るものない? ねえ……聞いてる? ……あ、ゴメン……首、しまっちゃった?」
他の――特にレプリス側のヒロインが共通して持つ一定の調子で作られたキャラクター口調と比べると明らかに“普通っぽく”喋らせようとしているのが分かる。こちらの思惑などそっちのけで、奔放に振る舞う世間知らずの少女。
シナリオの終盤、ライカはレゥの作り出した人格でしかないことが判明してからもこの性格はレゥと混ざり合う形で継続する。そして、作中で彼女を示すシリアルナンバーがレプリスの型式番号から『Human BEING:REU』――『人間としてのレゥ』へと変貌する流れは、まさに『May』から『Maybe』へとテーマが受け継がれ、そして叶えられた福音でもある。
My Merry May with be――ゼロ年代のオタクが夢見た“家族”という偶像
前作『May』では人間側のヒロインをリアルっぽく描写することでキャラクターからの脱却を図ろうとしていたものの、肝心のレプリスであるレゥとリースおいては今まで通りに心地よい安寧の中でまどろむばかりの結末にしか至れていなかった。
なぜならば、そう――レゥは主人公のことを『おにいちゃん』と呼ぶのだ。本考察の最初に提示した、この作品最大の伏線。レプリスがキャラクターのメタファーであり、プレイヤーの望む通りの反応をする作り物であるという揶揄を前提とするならば、この呼び方もまた、「こういうのが好きなんでしょ?」というオタクへの挑戦であると表層的には受け取れる。
だが、この作品はそんなありきたりの揶揄だけでは終わらせない。
ヒロインがプレイヤーの望む通りに動く、自分の意思を持たない傀儡だとするならば。
ならば、ヒロインを攻略するために彼女たちの望む通りの行動をとるプレイヤーの分身である主人公も同じような存在ではないか? と。
主人公の渡良瀬恭介は、最初期の試作型レプリスとそれを作った渡良瀬恭一の間に生まれた子供だった。
すなわち、半分はレプリスなのである。
(この事実は『May』『Maybe』本編では遠回しに語られるのみだが、『with be』で追加されたエピローグによってほぼ確定的となる。また、一部のスチルやアペンドディスクなどで見られる立ち絵の顔立ちにはレゥと同じ面影がある)
レゥとは直接の兄妹には当たらないものの、同じような“持病”を持ち、どこか受け身な性格をしている恭介。
ヒロインがプレイヤーにとって都合のよいキャラクターでしかないとすれば、主人公もまた同じように都合のよいキャラクターでしかない。
そして、『May』のレゥルートにおいて主人公はその事実を知らないままに妹と求め合った。
私は、『Maybe』のライカ(レゥ)シナリオこそレゥが本当の意味で“愛”を知った物語であると考える。家族への依存からの脱却と、キャラクターから人間への見事なる羽化。
“他人”を愛せてこそ、自立した人間となれる。
KIDの作品は、物語の入りこそやや陰鬱で人を選ぶ設定を好むが最終的には王道的なテーマに着地する。
いつも思うのは、それが贖罪と救済のための物語であることだ。喪失感や罪悪感のもたらす逆境のなかで主人公たちは何度も足掻き、そして最後に全てをひっくり返す。私がKIDの作品が好きなのは、きっとそこなのだろう。
『Maybe』以降、KIDの作品はより大人向けの内容となり、その路線は決して成功したとは言えない。冒頭で述べた通り2006年に倒産した後は5pd.より2009年に他社の協力を得て『STEINS;GATE』を発売。これがヒットし、一世を風靡することとなる。
以上が、『May Merry May』及び『May Merry Maybe』に関する考察である。偶然ながら、後者をプレイするまでに『EVER17』で繰り返されたのと同じだけの年数がかかってしまった。
こうして自分なりの考察をまとめられるような時期にプレイできたことを大変ありがたく思っている。
記事の終わりに、“彼”の考察を書いて筆を置きたい。
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渡良瀬恭平
主人公の兄であり、作中では唯一の男性型レプリス。厳密には主人公が生まれた後に作られたので、“弟”といった方が正しい。まだ『Maybe』が前作の43年後であると明かされる前の段階では若い頃の彼を模したコピーを身代わりにしており、年を取った本人は父である恭一になりすましていた。
今回の考察をしたためながら、私はずっとこの恭平というキャラクターはいったいなんのメタファーなのかと考えていた。
父親? 少し違う気がする。
そもそも、ギャルゲーにおいての父性というのは主人公に重ね合わされるためにあらかじめポジションを空けておくものだ。
ならば、なんだろう。
主人公を守り、優しく甘やかしてしまった結果、彼もまた罪を背負うことになる。最も大切なものを失いながらも、“家族ごっこ”を43年間続けることしかできなかったレプリス。
それは、“製作者”のメタファーではなかっただろうか?
もしそうだとすれば、冷静な客観視に恐れ入る。物語を作る側も、結局はプレイヤーに都合のよい存在でしかなかったのだとおおいに自虐しているのだから。
時代は移り変わり、彼らがあれほどこだわっていた“家族ごっこ”もいまやそれほど求められていないように感じられる。
それはきっと、ただの“偶像”でしかなかったことにオタクたちが気づいてしまったからだ。
いまはさしずめ、“アイドルごっこ”の最中だろうか。だが、それもまた“偶像”であるとそろそろ気づかれ始めているような気配を感じる。
果たして彼らは次に何を求めるのだろうか。
物語は常に幻想と幻滅を繰り返して、時代を渡り歩いていく。